阪神淡路大震災、あれから24年

あれから24年。

今一度当時の自分を思い返してみた。

その日はなぜか地震が始まる直前に目を覚ました。知らぬ間にこたつで寝ていたらしく、こたつの中から体を起こすと太い鉄パイプを叩いてパイプの中が共鳴音で満たされているような「フォーン、ゴーン」という音が窓の外でしていた。思い返すとこの音で起きたのかもしれない。
まもなく揺れ始めた。それはかつて経験したことの無い強い激しい横揺れだった。こたつごと揺すられ続け、立ち上がりたいんだけど揺れにあがなうことが一切できず、こたつの脚を持ちながら激しい揺れがいつまでたっても収まらないことで建物が崩壊する焦りを感じ「マジやばい」と思ったが、それもそう考えてるだけでどうしようもできない状況が続いた。その時は、本当に地球レベルでどうかしたんだと思っていた。

何日かして神戸の一般のお客様のフォローに入るべく志願し天保山の波止場から会社がチャーターした船に乗って神戸に向かった。神戸に着いて途中階が潰れた神戸市役所の横を通り、近くにあるお客様相談センターの窓口フォローに入った。ただ会社からは修理自体このセンターで受けずあくまで地域の専門店に誘導するようにと言われ、ボロボロになった服で懐中電灯用の電池をお求めに来られたお客様に対して乾電池一つ渡すことができず、とても歯がゆくすごくストレスが貯まり何のために来たのか相当頭に来た日々が続いた。電車が通じるようになってから、大阪へ戻る際に販売店実習で大変お世話になった王子公園にある専門店に立ち寄りご無事であることに安堵した。

当時、神戸(西神中央)へ工場移転するために新工場でのネットワーク設計やコンピュータ設備導入を担当していた。国道2と43号線の両方が止まっており山陽自動車道もまだ無かったことから通い慣れた県道38号線で向かうしかなかった。ただ当時はこのルートでしか神戸より西に向かえなかったこともあって大渋滞で何時間もかかり大変苦労したことを思い出した。

水タンクを宝塚までバイクで届ける時のこと。国道176号線も山本付近は道路の路肩が崩れ落ちてしまっているところも多く夜間は停電で電灯も消えていたことから安全な走路が見えず怖がって車がずっと立ち往生していた。ときどき見かねて誘導している人もいた。

当時の記憶は印象深いところを中心に断片的になりつつあるが、多くの方が亡くなり、生き残った人間は伝承する責務があると感じる。