2001/12/09

5日21時前、母方の祖父が逝去した。

ことの始まりはこうだ。3日14時前に母親から祖父が足を折ったので田舎の方に帰るというメールをもらった。初めはもう年だし、どこかにつまずいたのかと思った。ところがその日か次の日ぐらいに親から電話をもらって脳幹から出血して自発呼吸ができず人工呼吸器の世話になっている状態で脳死だという。何がなんだかさっぱりわからなかった。

聞いて率直に思いついたそうなった理由は、娘3人によるものか、ちょうど亡くなって約1年たった祖母が祖父を引き取りにきたのどちらかだと思った。

前者の理由は、祖父の頑固な性格で娘3人は以前から親子対立状態にあり、それを祖母がつないでいた。祖母が亡くなった時から娘たちは祖母の代わりに2週間交代で祖父の面倒を見ていたのだが、あいもかわらず、考え方の違いでずっともめていたのを誰もが知っていた。また祖母の逝去自体も未だ理由がはっきりしない。祖母が亡くなったのは昨年の11月末、交通事故にあったという知らせを聞いてすぐに田舎に戻った。国道を自転車でわたっていてダンプに轢かれたとのことだった。即死状態だったらしい。身の回りの整理をしていたときに遺書めいたものがでてきたらしく、それによると、祖父の頑固な性格についていけなくなったとあったらしい。娘たち、つまり親、叔母たちは祖母の亡くなる原因が多分に祖父にあると考えいっそう対立を深くしていた。しかしながら、孫レベルでは、なぜ?という疑問は未だはっきりしない。真相が藪の中である。そこで今回である。祖父が亡くなるまで子供の娘たちは付きっきりだったこともあって、通夜は孫だけで残り、その際に孫同士の話で誰もがこの2つの見方を持っていた。

後者は、約1年たち祖母が手のかかる祖父を迎えに来たのだと。個人的には今はこの見解を支持している。

祖父、祖母とも亡くなり今残されている課題は家を誰が継ぐか、遺産の分配方法だ。もともと祖父には長男がいたのだが、結婚してすぐ亡くなり、長男の嫁は相続で子供を取られるのを防ぐために旧姓に戻し、一歩離れた立場にある。祖父、祖母の希望として家を継ぐものが遺産も引き継ぐとしているらしいが、遺書も封印されているようで故人の遺志はいかされることはない。3人の子供がそれぞれの立場で家と遺産でもめている。祖父が亡くなって本当に悲しかったのだろうか?家は継がないが遺産は要求するという人もいるらしい。まだまだもめそうだ。このもめ事はそれぞれ親からも当然聞いているので孫同士のつながりにも影を落としてきている。祖父の怒りを買わなければ良いが。。。

最後に、今となって真相はわからないが知っている中での経緯は次の通り。
12/5に担当だった三女の叔母が用事があり、叔父(叔母の旦那)と交代するために2時間ほど家を空けたらしい。弟から聞いたところでは、買い物のために家を閉めきって祖父が出れないようにして3~4時間家を空けることはよくあったことらしい。祖父は惚けも入って一度家を出ていって泥だらけになって帰ってきたこともあるのでそうしているようだった。叔母が叔父と家に帰ってきた際に、祖父が玄関を入ってすぐの応接室に座っていたが、土間に落ちて骨折してらしいのがわかりすぐ近所の方の応援も借り救急車で病院に運んだとのこと。(ここらへんははっきりしない。)祖父は大腿骨骨折だったらしいが全然痛がらないことに看護婦さんが不思議がり祖父を見たところすでに息がなかったらしい。急遽人工呼吸処置を行い、レントゲン結果は脳幹から出血していて脳死状態。徐々に心臓も弱まっていき、亡くなったらしい。
祖父の逝去は、12/7の県内の新聞では老衰による死去と掲載されていた。

小さい頃母親が病気だったり、仕事をしていたせいもあり、ずっと祖父の家に預けられていた。長女の長男という孫だったことで、祖父祖母にはとってもかわいがってもらっていた。高校ぐらいまでは毎年休みの度に帰っていたと思う。でももう10年以上会っていなかった。
直近に会ったのは2,3年前。母親が祖父と喧嘩していたこと、自分自身でも自発的に帰ろうと思うこともなかったので期間が空いた。
その時、すでに祖父の記憶から僕は消えていた。誰?と言われ、ほんと、そのときはとてもショックで悲しかった。そして再び今回会ったときは、祖父はもう何もしゃべってくれない人になっていた。

たくさんの本に囲まれた祖父の部屋、小さい頃は遊び場だった広い屋敷、上の方から明かりがすっと入ってくる怖い倉、ほめられた機械修理、昭和初期の78回転レコードをかけられるようにしたステレオセットから流れる音楽、中庭にある池の飛び石わたり、やりすぎて怒られる鯉のえさやり、一日じゅう戻らない虫取り、竿もお手製の吉野川での釣り、祖父母と3人での栗林公園への小旅行、自転車での田舎探検・・・自然と涙が出る、すべて懐かしい想い出。